才藤卓(さいとうすぐる)
経営コンサルタント/経営危機コンサルタント

私は父の家業が建設業ということもあり、幼少期から多くの大工職人や今では恐らく関われないような業界の人たちに揉まれながら育ちました。
若いころは父の事業を手伝いながら、小規模ながら建築、不動産、輸出入業、介護事業、中古車販売、飲食業、等に主に経営者として関わりました。
そして、父の夢であった新規事業の実現のため、その融資の連帯保証人をしましたが、その事業は数年で倒産状態に陥ることになりました。
その父の事業の破綻処理のために全国を駆けずり回り、内藤明亜事務所にたどり着き、事業の破産と個人としても自己破産を経験し、早期に社会復帰を実現することが出来ました。
私が経験した当時の感覚としては、まるで出口のない暗闇の中で彷徨うような思いを味わいました。生きた心地がしないような地に足がついていないような気持ちの悪い心理状態を覚えております。
具体的には、内藤明亜と内藤明亜の長年一緒に活動してきた弁護士の導きで、倒産の意思決定前の段階で会社と父親の財産をある程度確保し、非常に短期的にダメージの少ない破産を実現できたのです。
そうした経験から、小規模零細企業の事業経営は、事業の設立段階から入口戦略よりも、出口戦略が極めて重要であるということを思い知らされたました。
その父が亡くなり、私のご先祖様を辿ると士族であったこともあるのでしょうか、住んでいた地域では代々相談役のようなことをしてきたと聞き、私もいつか困っている人の役に立つ仕事をと思い、内藤に相談しました。
ちょうど内藤明亜も後継者を探しており、「倒産経験があり、後に続く経営者の役に立ちたい思いがある」という条件合致し、お手伝いをすることになりました。

プロフィール
1977年4月19日生まれ
北海道の道南生まれ、高校までは北海道育ち
 
(免許・資格等)
宅地建物取引士、1級建施工管理技能士、2級土木施工管理技士
遺品整理士、普通自動車運転免許証、そろばん初段・暗算初段、
 
(趣味)
大学時代から始めたサーフィン。万年中級以下レベルを維持している。2-3年海から離れて全くできないことが過去3回あるので実質歴としては15年ぐらいでしょうか。体が動くうちは続けようと決めているので40台のうちに基礎体力と筋力を上げなければと思うのだが維持すらできていない中、最近は40肩になる始末である。これには少々ショックを覚えました。
趣味と言えるのかわかりませんが、2年ほど前から放送大学で心理学に関する講座をいくつか受けています。興味があるまたは何か全く知らない分野のことをすることが楽しく、無理がない1-2講座ぐらいの範囲で続けています。
 
(好きなこと・もの)
車です。尖ったスポーツカーではなく実用的な速い車が好みです。例えばSubaruインプレッサWRX、GRヤリス、Porshe911(足腰と感性がしっかりしているうちに一度は乗ってみたいです)などです。マニュアルがいいです。料理をすること。食べ歩き。地ビールの飲み比べ。温泉につかること、
 
(嫌いなこと・もの)
タバコ、悪酔いしてからんでくる人、戦争、
 
(学歴及び職歴) 
1996年3月   北海道函館IH高等学校  卒業
1996年4月  東京KG大学 工学部 建築学科 入学
 
2001年(H13)6月  上記 中途退学 (このころから放浪生活がスタートします)
 
2002年(H14)4月  S建設へ入社(父の会社) 建築・不動産業 この時は微妙な時期で社会保険加入の手続きがされていたことが後で分かっています。
 
2001~2003年 実はこの時期に人力車の俥夫として鎌倉デビューします。2年目には小樽店のオープニングメンバーに選出されて故郷に遡上することになります。3年目のある日、突然、親父から会社に電話が入ります。何やら嫌な予感。ある事情で困っていてカナダに居る弟の面倒を見に帰って来てくれないかということ。弟の身の安全が危ない状況にあるということを聞き、断る理由がなく3年の俥夫人生の終焉を迎えることになりました。2003年の秋のことだった。
原則365日営業、天候は酷い台風が来たとしても待機して休んだとい記憶はないです。心身ともに鍛えられ貴重な学びがあり、自分と向き合うことで人間として成長させてもらったと思います。私にとっては遅めの青春時代と言えます。
 
2004年1月頃~2009年(激動の始まり前)
カナダへ渡る 弟は遅めの高校生生活を送っていた。心配していた身の安全は大丈夫そうであった。彼はゴルフアカデミーと提携している高校に通っていてすっかりカナダ生活に馴染んでした。聞いている英語にはスラングばかりが飛び交っていてさっぱり理解できない自分がいた。時の流れを感じた。私と彼の年齢差が6歳、それまで兄弟らしい触れ合いがなく、ようやく少しは兄弟らしい関係が築き始めたころだった。私は数か月後に英語習得のために短大に併設された学校に通い始めることになり、留学生っぽくホームステイ生活を2年ほど送る。その間、両親がカナダへプチ移住し私が住んでいたい隣町に家を無理やり購入(1軒目)、1年ぐらいで私が住んでいた町に引越(1軒目が売れたので新たに家を購入)。私が少し英語ができるようになってからは親父と日本へ木材の輸出するために取引先を現地で探しまわっていたがほぼ相手にされず難航していた時期でもあった。また日本から不燃木材の売り先も同時進行で探し回っていた時期とも重なる。言葉の壁、商社の壁、基準の壁、どの壁も我々のような小規模零細企業にとっては高すぎたのか、そもそも無謀だったのかと振り返る。木材事業が暗礁に乗揚げようとした頃、諦めが悪いこともあり何か出来ることがないか、何でもいいので模索し始めた。弟からの情報で中古車はどうかと提案があった。北米は原則、左ハンドルの車両しか公道を走行することを認められていないが、数年前から15年ルールが施行されたので日本国内から北米市場にはない車両を輸入できるようになっているとのことだ、つまり15年落ちの中古車であればOKということ。当時は丁度NissanGTR32がぴったりの年式ということもあり高値で売られていたが、徐々に競合が増えて飽和状態となり価格競争になる過渡期でもあった。とはいえ何もやらずにいられないので家族会議をへて中古車ディーラーを始めることを決意、ディーラーライセンス取得からはじまり、セールスマンライセンス、ビジネスプラン作成、マーケティング、ホームページ、契約書の用意、物流の手配、国内での商品仕入れ等、現地での車両整備工場やボディショップ等手配、などなど、すべて自分たちで一から取り組みました。とはいえ、実際は幸いにも周りのサポートにも助けられながら何とかオープンすることができました。私の当時の英語レベルはまだアドバンス程度でした。※ちょっと補足すると、ビギナーレベル→インターミディアレベル→アドバンスレベル→通常の短大授業に参加可能というイメージです。
カナダでカーディーラーを始めるには州に申請をしてライセンスを得ないと車の売買はしてはいけない規制があります。わかりやすい例えでは不動産業と同じ理屈ですね。保証金の納付、事業計画、資産情報の開示、セールスパーソンのライセンス取得講習の受講など始めるまでお金も時間も必要なので気軽に始られるビジネスではありませんでした。それ故、curber と呼ばれるライセンスはないがディーラーを装って販売している輩の取り締まりが厳しくなってきた時期でもあったようです。
業界のイメージが悪いのでライセンス制にして業界全体の信頼を回復したいという狙いもあったのかと推測します。苦戦しながらも2年ほど営業をするが、恥ずかしながらなんと私の就労ビザの更新が失敗に終わりカナダ出国を言い渡されることになります。
その後は1年半ほどカナダへ観光ビザの範囲で済み続け、日本へ戻る準備を
自己紹介が完全に脱線しているかもしれませんが、ここでは私の人物像を知ってもらいたいので思い出しながら五月雨式に書いてきました。
 
両親と弟と家族全員が揃っての生活は10年ぶりであった。期間は約1年あったかどうか。カナダへ行くことがかなったら実現できないことだったと今になりしみじみと振り返ります。親父はすでに他界しているが、カナダでの生活はいい思い出になった。
自分の本意ではないことでも置かれている立場のなかで、時には流れに身を委ねてそのまま進むのが良い人生の流れを作るではないかと思います。成功なのか失敗なのか、というのはどの時点で考えるのかで正解を見つけることはできないかもしれません。そもろも何が成功なのか?私にはわかりません。さまざまな経験積むなかで人生が続く限りすくなくとも失敗はないと思えるようになりました。
経営に失敗して会社が倒産する。これは明らかな失敗でしょう。しかし、人生には続きがあります。歩き続けなればいけないのです。折角なので失敗から学んで次がうまくいくよう進むだけです。それ以外ないと思います。
 
まだまだ他にもあるのですが、長くなりますのでここで一旦割愛とさせていただきたいところですが、簡単にこの先について紹介します。
 
2006-2008年頃 カナダで裁判
カナダBC州で弟の世話をしていた日本人K(永住権取得者)を訴える。原告は親父。カナダでの生活費とゴルフレッスン費用を全てこの日本人Kに預けていたのだが、お金が数年にわたりお金が抜き取られていたのが主な提起理由。勝訴するがKは支払わず、財産は差押えられず終わるが、数年後に日本へ続く話がある。
話が長くなるのでここまでとします。
他、中古車ディーラーの時に車両返却の要求で提訴、相手は破産してしまうが車両は戻った。
 
2008-15年頃 Lowsonとの裁判 最高裁まで争うのが1件、刑事告訴が1件、建築紛争審査会が1件
敷金返還要求 原告はローソン。
土地建物の所有は親父の会社で借主はローソン、フランチャイザーは別法人というケース。賃貸借契約期間は15年、フランチャイズ契約は10年。
9年目で中途解約となる。賃貸借契約上では中途解約はやむを得ない事由があればできるとなっている。出来レースの裁判ではじめから勝ち目がなかった。不自然な動きが多く、こちらの代理人は親父の意向を無視して反訴しないまま地裁で判決を受けてしまった。代理人が完全にローソンに買収されているようにしかみえなかった。
刑事告訴、建築紛争審査会、いろいろあって長くなるので割愛します。
 
カナダから始まり10年ほど裁判と向き合うことを経験した。裁判所へ提出する準備書面にはすべてかかわりました。親父は英語については理解するが話さないし書かないので、私が英語に変換して弁護士へ伝える役を負った。日本では日本語なのだが、とにかく相当な仕事量だったと振り返る。こちらは零細企業なので仕事の傍らやることなので2重苦でありました。
 
2015-2016年頃 カナダBC州最高裁の判決をもって函館地裁で執行手続き
カナダでは勝訴したが賠償金の回収がゼロであきらめきれずいた。親父がある日、Kがアパートを所有していることを思い出した。アパート名がはっきりしないがキーワードが思い出されてきたのでそれをヒントに私が登記情報をしらべたところ、出てきた。
まずは、カナダでの判決は有効なので、それをもって不動産を仮差押える手続きを進めることになった。
問題はここから、英文の判決文を公式に日本語に訳して裁判所が認めるまでが大変。
本人が本当にその本人であるのかから始まり、証明しなければならない補足資料が膨大になった。裁判所というより、判事と書記官が若く、協力的であったこともあり無事に仮差押えが出来た。次は弁護士探しが問題で、過去の失敗から知人を通じて東京の弁護士を紹介してもらった。遂にKからお金を回収することが出来た。悔やまれるのが判決からの失った年月と遅延損害金は無理であったことだ。
 
今、私として良く言えば良い経験をさせてもらった言いたい。悪く言えば、その時間と労力があれば、そのエネルギーのベクトルを未来に向ければよかったのかもしれない、もったいないという思いと後悔があります。
 
2018年
その後、介護事業の大失敗が決定打になり2018年末ごろ、私にとってのXデーを迎えることになります
 
ここでは一部しか紹介しておりません。
 
私なりの総論として、小規模零細企業は裁判を抱えたまま健全な会社経営を続けることは出来ないと言えます。大企業は法務部などで対応するだけでまるで他人事です。
しかし、小規模零細企業はどうでしょう。全てとはいいませんが、ほとんどは社長本人や家族が受けとめて対応しなければなりません。会社経営を保ちながら並行してやることになります。裁判に勝つ負ける以前に時間と資金の問題になってきます。
これは時間差で追いかけてきます。本当に恐ろしいです。
改めて考え直すと、単純に良い相談相手がいればここまでならなかったとも言えます。
 
私の身の置き場は日本→カナダ→日本という流れです。時代背景でいえば幼少期はバブル終焉期→少年~青年時代(いつをさすのかわかりませんが)はバブル崩壊→就職氷河期→未曾有の時代 今に至るといった感じでしょうか。
 
~2022年迄 
親父の会社では、現場監督及び営業職を兼務しながら建築業では約15年のキャリア、宅建士を取得してから不動産実務としては5-6年経験を積みました。
新築住宅、改修工事に関する施工管理と計画、プランニング作成提案、積算・見積作成、経営側としての資金計画→金融機関からの短期・長期借入の業務全般の実務を行ってきました。
2社目の会社では現場監督と営業職のスタイルは維持。現場職人の管理業務(作業と配置の指示を行う)と、営業職の部下育成の経験を積んだ。
2022年2月21日 忘れもしない人生で最悪の数日 
全国版のニュースにもなった前例がないほどの暴風雪があった日(函館江差自動車道の北斗中央ICから北斗追分ICの間で車およそ100台が絡む多重事故が発生して1人が死亡し、170台ほどの車が1キロ以上にわたって立往生しました)のこと。私もこの中の一人でした。幸運にも接触事故にも合わずに済みましたが、車中に5時間ほど閉じ込められた状態でした。この時、警察と救急病院から父の件で電話ある。
巻き込まれた方々は車を置いて大型バスで近隣の保健センターへ避難となった。恐らく大型バスで4-5台ぐらいだったと思います。私は急いでタクシーで向かう。電話連絡の時点で覚悟は出来ていたが父はほぼ脳死状態でICUで予断を許さない状況であった。医師からは何時云ってもおかしくない状態であると告げられたが突然のことで現実が受け入れらなかった。
2日後に父は天に召されました。
このようなショッキングな出来事があったためでしょうか、これからの自分の人生についてより深く考えるようになりました。自分のご先祖のことから始まり過去の経験、現在そして未来にどう繋いで生きていくべきかと自分と向き合い悩み考えました。私にとって人生において破産したことが大きな曲がり角であったのは確かで、その曲がり角をどうにかうまく曲がったような感触があったのです。内藤さんのような相談相手と出会わなければどうなっていなことかと振り返ると、自分の選ぶ道が徐々に見えてきたのです。そうして現在、内藤先生の協働者として活動をしています。

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