内藤明亜(ないとうめいあ)
経営コンサルタント/経営危機コンサルタント

わたしは15年間の会社経営ののち、1994年にその会社を倒産させました。

2億円の負債を抱え倒産したのは1994年、バブル崩壊後の売上げ低迷と資金繰りの失敗が原因でした。

その倒産は、自宅をヤミ金融に占拠され家族とも離れ離れになるという悲惨なものでした。

倒産翌年、縁あって『倒産するとこうなる』(明日香出版社)を著し、その反響から【経営危機コンサルタント】として再起することになりました。倒産経験者として「経営危機に陥った、わたしのあとに続く経営者のために働く」と決めたのです。

このような経験がありますので、当事務所が掲げる対応方針は下記の通りです。

  • 倒産に際し 経営者の利益を可能な限り最大化する。
  • 倒産処理は ダメージを最小限にして終わらせる。
  • その後 経営者に再起の道を見出していただく。

現在、経営危機に陥り、先行きの見えない中にいる経営者の皆さん、その苦しみも不安も孤独も、経験者であるわたしには痛いほどわかります。しかし、時間と知恵と決断力さえあれば、この状況は最小限の痛みで終わらせることができます。

そして、その先に”再起の道”を見いだすことは必ずできます。
倒産は”終わり”ではなく、単なる”曲がり角”でしかありません。
その事実を一人でも多くの経営者に伝えたい、という想いは今も変わりません。

経営危機に陥った小規模零細企業を対象に、可能であればその経営危機からの回避、あるいはその経営危機を受け入れて倒産等を経て次のステップに移行するためのコンサルテーション。主に“後者”を行っています。

前職でマーケティング関連の企画に携わっていたことを実務で活かす形で、経営危機に特化したコンサルタントとなりました。
コンサルタントとしてのキャリア二十四年、対応した依頼人(相談者)数は九百人を超えるに至りました。

基本的な対応姿勢としては
「回避にしても倒産するにしても、技術的なことは重要だが、心理的な要因も大きいため、事業経営者としての大きな曲がり角を再起できるような形でうまく曲がれるようなアドバイスをする」
ことを心掛けています。

1998年から東京都新宿区にささやかな事務所を開設(新宿区の中で三回移転)し、全国各地からの依頼人のご相談に応じています。
迷い苦しむ時間を断ち切るために、内藤明亜まで話をしに来てください。
待っています。

内藤明亜の経歴書

1946年 4月中野区生まれ

東京生まれで、東京育ち。逆算すると1945年8月15日直前の受精です。
両親は〝撃ちてし止まん〝の精神でわたしを産んだのかどうか。疑問が残ります。
「内藤明亜」はペンネームです。「Nightmare」が下敷きであることはなかなか見抜かれません。
本名は『TIME誌の記事』に書かれています。

1965年 明星学苑高等学校普通課卒業

最終学歴は高卒です。

1967年 多摩美術大学付属多摩芸術学園映画課中途退学

この専門学校は中途退学でした。放校(除籍)だったかもしれません。

映画関係のアルバイトに多数従事

最初は映画作家を志向していました。
円谷プロダクションでアルバイトしていた時(第一期の『ウルトラマン』)に「ザラブ星人」の中に入り、ウルトラマンと戦った経験(スーツ・アクター:TVにオンエアされた)があります。

1969年 (有)第一宣伝社に入社

アカウント担当。 映画の道を断念し、広告の世界に入りました。


(株)大東クリエイティブセンター

制作部コピーライター兼ディレクター。


(株)ジャパド

マーケティング部プランナー。

(株)創美企画

制作企画部次長マーケティングディレクター。
SP代理店、制作会社、広告代理店と、広告関連会社を歩みました。

1979年 (株)スリークォーターを設立

代表取締役マーケティングディレクター。
キャリア十年、三十代半ばで事務所を持ちました。
企画主導の制作会社を中央区銀座に設立し(その後新橋に移転)、プレイングマネージャーを足掛け十五年間勤めました。
社団法人日本広告制作協会(OAC)に参加、後に理事を勤めました。

※もともとのフィールドは[マーケティング・ディレクター]であり、[プロモーション・プランナー]であり、[クリエイティブ・ディレクター]でした。
24歳のとき広告業界に入り、サラリーマンを10年やりました。その間に身につけたのは[プロモーション・プランナー]のノウハウだったのです。
新製品の〝市場導入プロモーション・プラン〝や需要期の〝キャンペーン(プロモーション)・プラン〝などの企画書を書くことが仕事になっていきました。
企画を立てることができ、なおかつ企画書が書けるということがまだ珍しい時代で、依頼があまりに多いのでサラリーマン時代には友人たちとアルバイト用の個人事務所をもっていた時期もありました。
35歳で会社を設立してからは、[マーケティング・ディレクター]として〝市場〝を分析し、位置付け、その市場を開拓する視座を持って、[プロモーション・プラン]を立案し、それにかかわる[クリエイティブ・ディレクター]を勤めていました。
その会社の経営を15年やりました。最大売上が[4億円]、社員数が[20人]ほどでした。

以下、マーケティング・プロモーションに携わっていた頃の仕事について述べます。

◆じっくりと腰を据えてやった仕事

[道路の広報]
建設省・首都高速道路公団の広報をやりました。
新しい道路の構想段階から地域住民の合意を形成するために、広報施策を検討し、広報手法や広報表現を考える仕事です。(現在「建設大学校」常任講師)
「第二東京湾岸道路」や「中央環状線」など。生きているうちに走りたいものです。
こうしたナショナルプロジェクトに携わることは大変に刺激的で楽しいものです。

[中国料理店のプロデュース]
中国、北京の宮廷料理の店『□膳飯荘(ほうぜんはんそう)』の東京店を手掛けました(「ほう」は「にんべん」に「方」です)。
本店の北京店に取材に行き、調理方法、メニュー、サーブなどから、店舗デザインやお皿のデザインなどのアイデンティティの形成を、「21世紀の紫禁城」というコンセプトで中国の伝統をベースに、世紀末的なあやうさで遊ばせていただきました。
とても面白い仕事でしたが3㎏ほど太ってしまいました。

[栄養補助食品のマーケティング]
食用油メーカーからの依頼で栄養補助食品のマーケティングを展開しました。
食用油の精製過程でビタモンEが採れるのをベースに、EのみならずレシチンやビタミンF、ビタミンCなど『栄養素食品』というカテゴリーネームを与え、「エセンシア」というブランドの基にラインナップし、商品開発から流通対策、広告広報までやりました。
商品関連の知識が貧しく、一生懸命勉強しながらやりました。

[コンピュータの市場導入]
ファミコンに対抗したMSXコンピュータの市場導入をやりました。
電機メーカーの、ビギナー向けコンピュータを市場に導入し、定着させる仕事で、ベーシックでプログラムを組んだり、ソフトハウスのプログラマーと新しいソフトをつくったり、販売店でのデモンストレーションの方法を考えたりしました。
従来アナログ派でキーボードが苦手だったのですが、克服することができました。

[長野オリンピックの招致]
日本国内での冬季オリンピック招致合戦に勝ちました。
長野市の冬季オリンピック招致委員会の仕事で、コンセプトのビルド、キーワードづくり、さらにはJOCに提出するプロポーザルの作成に関与し、当時、旭川や雫石などと戦って、国内で勝利しました。
その後、実現したことは心から喜んでいます。
しかし、わたし自身がこの仕事に携われなかったのが残念です。

[たばこ愛好家の組織化]
日本たばこの仕事で、たばこ愛好家の組織化をオーガナイズしました。
当時は嫌煙権運動が盛んで、愛煙家は片身の狭い思いをしていました。
そうした孤立した人に心的保証を与えられるようなムーブメントづくりでした。
ネーミング、シンボルマーク、PR誌、イベントなど会員対象でしたが全面展開しました。
わたし自身がヘビースモーカーであったことも影響してか情熱を傾けてやりました。

[本格焼酎の広報活動]
乙類焼酎。イモやソバを素材とした焼酎の広報をやりました。
酒造組合中央会の依頼で、本格焼酎を普及させることが目的でした。
若い層にターゲットを絞り、ディスコの「GOLD」や、浅草の「花屋敷」を借り切ってのイベント、シンボルマークの公募、著名人で「世界本格焼酎連盟」を結成したりしました。
わたしは飲まないのですが苦手なものでも仕事はできるのだ、と吹聴する材料になりました。

[クルマの販売促進]
日産、ホンダ、トヨタ、マツダ、いすず、フォードなど、SPの仕事をしました。
広告代理店からの依頼ですが、なぜか途切れることなくクルマの仕事をずっと続けてやってきました。
これは、クルマのことが判ること、ディーラーのプロモーションが判ること、さらには購入者の心理が判るからでしょうか。
大小のキャンペーンを企画しました。
やればやるほどクルマ業界の内側が見えてきます。

[CIのディレクション]
製紙会社のCI。三社の製紙会社が合併することになり、その新会社のCIを依頼されました。
これは三つの会社の消滅をも意味しており、単なる新しいCIの形成だけではなく、そこに至るストーリーを創ること。
言わば新しい会社を皆で作るのだとういエネルギーのようなものを形にしていくことが大切でしたがなんとかやり遂げることができました。
本格的で極めて難易度の高いCIの仕事でしたが、楽しくやれました。

[行政機関での講演]
建設省や首都高速道路公団あるいは地方自治体で広報の講演を続けています。
日本はアメリカなどに較べて行政の広報が遅れています。
行政の運営は受け手である生活者の了解と合意がなければ効率的な展開ができません。
しかし、行政担当者は広報のノウハウを身に付けていません。
そこで、応援団的な講演をやり続けています。
ナーバスな行政マンに手練手管のテクニックを教えることはわたしの喜びです。

 

◆ その他印象に残った仕事

・アメリカスカップに参戦するニッポンチャレンジの支援広報施策
・CABINのブランド別ポジショニングの整理
・アーネストボーグナインのかみさんが創った化粧品の市場導入
・富山県のイメージアップ広報施策
・ソーラーカーレースのオーガナイズ
・眼鏡フレームの商品開発
・イタリアントマトのリファイン
・読売ジャイアンツの50周年CI
・使い捨てコンタクトレンズの日本への市場導入
・カネボウの新製品開発
・ユニチャーム生理用品タンポンの市場導入
・資生堂の新製品キャンペーン
・ロッテチューインガムの商品開発
・NTTの新製品の導入キャンペーン
・インスタントラーメンのキャンペーン
・ソニー8ミリビデオの市場導入SPキャンペーン
・タレントのイメージアップキャンペーン
・マルイのPR誌編集
・ドイツ製コーヒーのパッケージデザイン
・横浜市民生局のハンディキャッパー対象キャンペーン
・市区町村の行政広報
・スキューバダイビングショップのプロデュース
・ファッションショーの構成演出
・マミヤ一眼レフの市場導入
・サントリーオールドのリポジショニングプラン
・リカちゃんの商品開発
・旅行代理店の新ディステネーション開発企画
・ハウスメーカーの住宅展示場でのプロモーションプラン
・東芝VTRのプロモーション
・総理府輸入促進キャンペーン
・東映ビデオ市販ビデオ「B-BOY」プロデュース
・目黒区の外郭機関都市整備公社の広報施策
・琵琶湖湖畔のリゾートホテルのオープニングプラン
・真言宗空海千百五十年御遠忌記念プロモーション企画
・地球環境シンポジウムで配付する電事連のパンフレット制作
・某市長候補の選挙キャンペーン
・眼鏡フレームメーカーのバレンチノガラバーニブランド取得及びプロモーションプラン
・建設省道の日イベントのオペレーション
・NEC大学生対象パソコン近代五種競技イベント
・万年筆モンブランのアニバーサリーキャンペーン
・ロボダッチのキャラクター開発及び商品開発
・ヤマハ家具ショップオープニングの企画

 

◆ 二十五年のキャリア
マーケティングという概念も、プランナーという職種もない時代からプランニングを仕事としていました。
自分で自分を「戦略家」だと位置づけて仕事を続けてきました。
ざっと数えると、書いた企画書は一千本を超えると思われます。

 

[1994年会社が倒産 フリーとなる]

会社経営15年目に会社を倒産させました。
当時、倒産者(破産者)は会社の役員には簡単にはなれない時代だったので、就業することなくフリーになりました。
フリーのプロデューサーとしてこれまでのキャリアを活かして活動していました。
この領域の仕事は需要があるのでしょう、断続的にいまだに続いています。

[1995年夏から嘱託契約]

欧州車の輸入代理店の嘱託をして、好きな領域でマーケティング、広報などの仕事を担務していました。
この時に、PC(NEC PC-9821 xe を貸与され、あっという間にインターネットにはまってしまいました。

[1993年から]

建設省建設大学校の常任講師を、「広報」の講義を継続的に行っていました。

[1995年10月 明日香出版社より上梓]

第一作『倒産するとこうなる』を出版しました。
反響の大きさに後押しされる形で、[経営危機コンサルタント]として[内藤明亜事務所(個人事務所)]を起業したことになります。
以降、個別対応のコンサルテーション、著述、講演、などを続けています。

[2011年9月~現在]

『継続か!倒産か!』を上梓。
『倒産するとこうなる』以降、都合九冊の著作を著し今日に至ります。
その後、本間売れなくなり、出版の依頼はまったくなくなりました。

 

○家族

祖先をたどったところ四代前が長野県(南佐久)から東京に出てきたことは判りましたが、その前が判明できず、しかもわたしを含めてこの四代が全部男の一人っ子だったので上には係累がありません。
この四代がみな東京なので、生粋の東京人だと思っています。

戦災で焼けてなくなってしまったのですが、以前菩提寺にしていた浅草の明星山出山寺(吉原のすぐ隣)にあった過去帳を見たお寺の人の記憶によれば、祖先は元禄時代まで遡ることができ、井出伝六と名乗る人がもっとも古いということでした。
四代前(高祖父:ひいひいじいさん)は万延元年生まれです。

父は大正生まれの事業家(運送業)だったようで、昭和二十年代後半には千代田区神田に会社を持ち手広く事業をやっていたようでした(朝鮮戦争特需)が、その会社もたたみ(連帯保証をして云々と聞いたことはありますが、倒産だったと思われます)晩年は昔世話になった会社に面倒を見てもらい、サラリーマン役員として生涯を終えました。
若いころ北大路魯山人の友人だった、とのことで魯山人の作品がいくつか残されています。
明治生まれの母は戦争中東京本郷で本屋をやっていたとのことです。
わたしが二十一歳の時に母を、二十七歳の時に父を亡くしています。

家族は、四十年連れ添った妻は2012年三月に大腸癌で逝去。
ペンキ職人に嫁いだ長女(ここには孫が四人<女・女・女・男>もいる)。
長男は国産通信コンピュータメーカーに就職し、結婚。2012年の暮れにはここにも男と女の孫が誕生。

わたし自身は2012年の春に思いがけずに妻に先立たれて単身者生活を送っています。

戌年生まれ。牡羊座。O型。身長 168㎝、体重 79kg 。
やや高血圧、中性脂肪過多。常に肥満と戦っています。
1999年に急性心筋梗塞で緊急入院、ステントを入れる緊急手術をしました。
現在は血圧安定にして、極めて健康です。
週に二~三回ほどGymに通い、バーベル運動と水泳で体力維持につとめています。

○趣味

趣味は多領域で深いほうです。

[クルマ関連のこと]
軽量のスポーツカーでサーキットや峠や首都高を走ることが好きです。ユーノスのロードスターを四台乗り継ぎました。
2021年の暮れに、一週間に二回転んだことにショックを受け、クルマは売りました。
免許証はまだ持っています。

[スキューバダイビング]
最深47m。最長一時間二十分。グアムの海が好きです。

[ジャズ]
五十年間聴き続けています。主に五十~六十年代のメインストリームが中心でしたが、最新のNewYorkのジャズも聴くようになりました。
年一回はNewYorkに行ってジャズクラブめぐりをするのは最大の楽しみのひとつです。

[読書]
ノンフィクションを、古今東西のものを読み漁っています。

[落語]
古典的な噺が好きです。歴史的な音源から最新の落語家まで幅広く聴いています。週一回は寄席や落語会に行くことが理想です。
多い年は年間400席ほどの落語を聴いています。

[料理]
包丁が研げます。レバーペーストからねぎま鍋まで、うまいものを作ります。

[着物]
ネットオークションで求めたものを気軽に着ています。

[オーディオ]
元々はアナログ志向、JBL-LE-8Tを真空管で鳴らした音が好きです。
現在は、聴力が衰えたため、ジャズの音源はすべて[MP3]化し、2テラのHDDに入れ、DENONのアンプを通して[JBL-LE-8T]のスピーカーで聴いています。

[映画]
これは一時期のヨーロッパ映画だけが好きなのです。アメリカ映画はあまり見ません。

[金継ぎ]
妻を亡くした後、朝日カルチャーセンターに通って覚えました。現在も通っています。
わたしは、珍しく“漆(うるし)”にかぶれない質(たち)ので、素手でやっていて周りの方々からうらやましがられています。

真剣にやったスポーツは軟式テニス(中学時代に東京都でベスト16に入りました)と水泳(ブレストで四千米泳がされました)です。
軽くやったスポーツは野球(草野球のキャッチャーでした)くらいでしょうか。テニスをやっていたおかげで肘と膝を痛めてしまい、それ以降関節に負担がかかるスポーツは苦手になりました。スキーとゴルフはやりません。

非喫煙。元愛煙家にしてヘビースモーカーでしたが、心筋梗塞に罹患してからきっぱりとやめました。いまや、タバコの匂いは苦手なものの筆頭になってしまいました。

コーヒーは一日五~十杯ほど。この癖は代わりません。

お酒の習慣はありません。元来アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH1,2)が両方とも不活性のため、〝呑めない(呑むと危険)〝のです。
このことには長いことコンプレックスを持っていましたが、還暦を過ぎる頃になると軽く受けとめられるようになりました。

賭けごとの習慣もありません。ときに自身をギャンブラーの資質があると感じることはありますが、競馬など既成のギャンブル癖はありません。
カラオケは嫌悪しています。

クルマの免許を取得したのは遅く四十歳代半ばでしたが、それ以降クルマにのめりこんでしまった、と云われています。
車歴は、SAAB-900TURBO-CABRIORET、EUNOS-ROADSTER、CATERHAM-SUPER-SEVEN、GOLF-GLI、 M2-1001、CIVIC、FAMILIA、RENAULT-5、LANCER-TURBO、CORSA、BMW320(LeftHander、Manual Transmission、200,000㎞以上の走行距離)。EUNOS-ROADSTER-V-SP、そして、最後に乗っていたクルマは30年前の黒の[EUNOS-ROADSTER-S LIMITED]。ROADSTERでは四台目で、赤い内装の希少車ですが、手放してしまいました。

以上。2023.3.5.に修正をしました。

 

講演活動・メディア対応

経営危機コンサルタント・内藤明亜は、中小零細企業経営者向けの講演活動に力を入れております。
また、各種メディアからの取材にも対応しておりますので、講演・取材をご希望の方は以下までお気軽にご連絡ください。

講演・取材のお申込み

内藤明亜事務所 事務局までご連絡ください。
TEL.03-5337-4057
FAX.03-5337-4058
〒169-0074 東京都新宿区北新宿1-17-3 金元ビル202

メールでのご連絡はこちらのフォームから

講演活動

多くは中小零細企業経営者向けに、
・「倒産を知り、倒産しない会社を作るにはどうしたらよいか」
をテーマに講演活動を行っております。

具体的な講演テーマはご依頼に添っておりますが、特にご指定のない場合は、
・「倒産と回避の分岐点」
というタイトルで、著作では書けなかったことも含めてお話ししています。

あるいは
・「近ごろの倒産の傾向と対策」
として実際に倒産相談にいらっしゃる方との相談内容(プライバシーの侵害にならない程度の)について講演しています。
ここ十数年の間に、商工会議所、商工会、法人会、青年会議所、同業の協会、地域の組織など多数の実績があります。
一方的な[講演会]ではなく、参加者との会話(座談)を主体とした[勉強会]の形式が効果的なので、そのような形でもお受けしています。

執筆・雑誌への寄稿

当websiteトップページにある『内藤明亜の著作』をご参照ください。
その延長線上でのご依頼をお受けいたします。
基本的には「会社の倒産回避」「会社の倒産」「個人の自己破産」そして「それからの再起」をテーマとした原稿依頼に対応しています。
その他、「金融機関」に関するご依頼にも多く対応しています。

誌名/出版社記事
『財界展望』/財界展望新社「信用保証協会は中小企業の味方じゃないの」他
『プレジデント』/プレジデント社「上手な倒産のさせ方教えます」他
『組合活性化情報』/新潟県中小企業団体中央会「倒産なんて恐くない」
『経営者会報』/日本実業出版社「崖っぷちで倒産を回避する法」他
『週刊ダイヤモンド』/ダイヤモンド社「経験者が語る危機脱出法」

その他

新聞・雑誌への取材対応/談話提供

倒産や金融機関に関するコメントを求められることもあり、ご依頼があれば対応いたします。
その他、電話による取材などに対応しています。

掲載メディア出版社
『日本経済新聞』日本経済新聞社
『財界展望』財界展望新社
『アサヒ芸能』徳間書店
『週刊宝石』光文社
『週刊文春』文芸春秋社
『現代』講談社
『デイリースポーツ』デイリースポーツ社
『プレイボーイ』集英社
『DIME』集英社
『TIME』TIME
『SPA!』扶桑社

その他

TV出演

倒産や金融機関に関するコメントを求められることもあり、ご依頼があれば対応いたします。
その他、電話による取材などに対応しています。

番組TV局
『イブニングワイド』NHK
『報道特捜プロジェクト』日本テレビ
『ニュース23』TBS
『スーパーナイト』『とくダネ』フジテレビ
『スーパーJチャンネル』テレビ朝日
『ニュース夕方一番』テレビ東京

その他

 

 

 

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