倒産問題は奥が深い~【倒産問題の深遠】
倒産問題には日本経済の凝縮した姿が
倒産とは「会社というユニットの経済的破綻」に過ぎません。
しかしそこには、日本経済の本質的な問題点が凝縮されているように思われます。
倒産問題を凝視することは、日本経済を底辺から見ることになります。
鳥瞰(Birds Eye’s View)ではなく、虫瞰(Worms Eye’s View)でしか見ることができないものをしっかり見ることで、今日の日本経済の低迷に活路を見いだせないか、とわたしは考えるものです。
倒産問題は奥が深いです。
その深淵を眺望することをここでは試みます。
倒産はなぜ起こるのか
倒産の原因
倒産は「経営者が悪い」とよく言われます。
果たしてそうでしょうか?
倒産の原因を大別すると「自動的な倒産」と「他動的な倒産」とそして「自動他動不可分の倒産」に分けられます。
自動的な倒産
これは会社(経営者)がダメで倒産するケースです。
採算が上がらない会社(経営)は成立しませんし、利益を私的に費消しても存続はできません。
すなわち、儲からない会社か、儲かっていても経営者がそれを再生産にまわさない(いわゆる、呑む、打つ、買う)かでしょう。
幸いなことに、わたしのところに相談に来る方にこのパターンはほとんどいません。
本を読んで解決しようとするような方には、このパターンが少ないということでしょうか。
わたしは、全倒産のおおよそ50%はこのケースであろうと睨んでいます。
この自動的な倒産は、弁護の余地がありません。
これらは「淘汰されるべき倒産」と位置づけてよいと思われます。
他動的な倒産
これは、会社や経営者が不可抗力的に被る倒産です。
・ 取引先から不渡り手形などの未収金が発生する。
・ 地震や火災などの天災に遭遇する。
・ バブル崩壊の影響で会社の財産評価額が低下する。
・ 金融機関から融資が引き上げられる。
・ 社会変化の影響で産業として成立しなくなる。
もちろん、これらの他動的要因があろうとも倒産を回避できているケースもたくさんあるのですが。
全倒産の20%を占めるであろうこの他動的倒産には悲劇が生まれることをわたしはたくさん見てきました。
ここに倒産問題の深淵が多く潜んでいるのです。
自動他動不可分の倒産
これは、結果的には他動的な要因が予知できたはずだが、予知できた段階で対策を講じ得なかったために倒産に至るケースです。
・ 未収金の可能性はあったが対策を打たなかった。
・ 天災に対する保険を講じていなかった。
・ 財産評価が下落しはじめた段階で手が打てなかった
・ 金融機関との関係悪化が予測できたが手をこまねいていた。
・ 産業としての将来性に不安はあったがなにもできなかった。
おそらく、全倒産の30%程度を占めるであろうこのケースにも問題が多いのです。
経営者にとって慚愧の想いが最も強いのはこのケースです。
ここにも倒産問題の深淵が多く潜んでいるのです。
倒産は「経営者が悪い」ケースが多いことは事実ですが、それだけではないこともご理解いただきたいのです。
わたしが扱うケースは「他動的な倒産」と「自動他動不可分の倒産」のケースがほとんどで、「自動的な倒産」についてはよく判らないところがあります。
倒産はなぜ理解されないのか
一般的に”倒産に対する理解”は驚くほど低いものがあります。
かくいうわたしも自らの倒産に際してはなにも知らなかったに等しい状態でした(十五年も会社経営を続けていてです)。
よく申し上げる比喩では、”クルマ”の免許を取るときには「危機管理(事故にあったときの対応)」は必須ですが、”経営”は登記さえすれば誰にでもできるわけで、危機管理を教わることなく経営がスタートしてしまいます。
これは、制度的な問題といわざるを得ないようにも思えますが、それ以外にも倒産が周知にならない環境について論じてみます。
倒産のマスコミ的評価
わたしは、マスコミの取材を受けることが多いのですが、彼らの倒産に関する評価が一般的な評価に近いと思われますので、それについて触れます。
サラリーマンには経営がついにわからない
取材記者は、「経営が判っていない」と思わせられることがよくあります。
たとえば、会社が資金不足に陥ったときに、タチの悪い金融屋から融資を受けたりすることがあってそれが遠因で倒産することがあります。
記者たちはこぞって「経営者が愚か」だと断じますが、わたしは、「それではタチの悪い金融屋からの融資を受けないで、あなたに支払う給与を待ってくれといったら協力しますか?」 と質問を投げかけるのですが、これについては「それは困る」とか「考えられない」 と答えます。
たしかにそういう経営者は愚かではあります(わたしもそうだったのですが)。
しかし、そのような判断をしてしまう経営者の気持ちを斟酌することができなければ、報道する側が倒産の深淵を理解することはできないのです。
もうひとつの例として、ロッキード事件の時に当時の全日空の大場社長が「M資金」の 詐欺に引っかかりそうになったことがありましたが、その判断こそが経営者の中に潜む「悪魔」なのであり、経営に携わる以上そうした悪魔を飼ってしまうこともあるのだということを理解しないと倒産の深淵がわからないのだ、とわたしは取材記者を挑発することになります。
中間管理職は経営がわからない
しかしこれらのサラリーマン取材記者は”有能”です。
経営者の心情に関する理解は浅くても、破産法などの理解や破産に関するデータはしっかり把握しています。
考えてみると、彼らのほとんどは大企業のエリートサラリーマンなのです。
でも、彼らが先に見ているものは「経営者」ではなく「中間管理職」であるように思えます。
つまり、今のサラリーマンの目標が「中間管理職」になっているのではないか、というのがわたしの仮説です。
会社の運営に関して、日本的システムが有効だとよく言われていたように思いますが、これは「中間管理職(マインド)育成のシステム」についてであって、「経営者(マインド)育成のシステム」ではなかったのではないか、とわたしは睨んでいるのです。
大企業の経営者を見ればよく判ります。
破綻した金融機関の経営者を見ると、わたしから言わせていただければ経営者としての責任感は全く持っていません。
まるで中間管理職のようではありませんか。
まだ上に誰かいて、その顔色をうかがうような対応は醜悪です。
一方中小零細企業の経営者は、自分個人の全存在(全財産)をかけて、経営にあたっていますので、その破綻は壊滅的になります。
最も、中小零細企業の経営者の中にも中間管理職マインドで経営している人が増えている実感もわたしにはあります。
自分がトップであることに戸惑っている経営者群です。
これはこれで困った傾向です。
余談に陥ってしまいましたが、マスコミの取材記者は経営者マインドが理解できないようです。
その原因=中間管理職意識におかされているのではないか、というのがこの論の仮説です。
倒産の一般的評価
倒産には、「犯罪」的なニュアンスがつきまとっています。
倒産それ自体では決して犯罪ではないのですが、一般的な理解はそういう方に傾斜しているように見受けられます。
わたしが見たケースでは、家族が経営者であるお父さんを追い込んだがために、経営者(お父さん)が必要以上の加害者意識に陥り、正常な判断を狂わせるようなこともたくさん見受けられます。
倒産は犯罪じゃない
倒産する際は必ず債務超過に陥るために、「支払い」や「返済」ができずに終結を迎えざるを得ません。
それは「約束が守れなかったという負い目」を負わざるを得ません。
そのことは道義的には”犯罪”と言えるようには思えますが、”犯罪”はあくまでも刑事上の”犯罪”であって、道義的な違約を”犯罪”に位置づけることはできないと思います。
にもかかわらず、そこに犯罪的な意味を付す傾向はどうにかならないものだろうか、とわたしは心配しています。
かくいうわたし自身も、その思いから脱却するのにたくさんの時間がかかったのも事実ですが、要するに明らかに間違った先入観が支配しているのです。
知らなかったからそうなるのであって、知ることができればしっかり理解することができるのです。
なぜ、こうした通念が支配的なのか。
これは、何か大きな力がそうしているのではないかと思われるほどです。
こうした通念が支配している以上倒産問題はなかなか理解されないのです。
倒産者は非人間じゃない
倒産者(破産者)にまつわる不穏な風評があります。根強く。
曰く、
・ 倒産者は戸籍や住民票に表示される。
・ 倒産者は選挙権がない。
・ 倒産者は銀行口座が持てない。
・ 倒産者は旅行ができない。
・ 倒産者は離婚しなければならない。
・ 倒産者は運転免許を取り上げられる。
・ 倒産者は二度と会社が持てない。
これらは全てわたしの依頼人から問われたことですが、全てでたらめです。
倒産に付帯する手続きで、破産する(破産者となる)とそれなりの制限はありますが、上に挙げたことは全て正反対です。
こうした風聞が、倒産をわかりにくくしているのです。
倒産しても基本的人権は守られます。
こうした風評も、何か大きな力がまき散らしているのではないか、と思われるほどです。
中小零細企業の経営のバックグラウンドを知って欲しい
事業経営とは何か
経営者がそれをどう考えているかに関わりなく、「国の仕組みに組み込まれている事業経営」というものがあります。
その視点から見れば、中小企業経営者は「納税装置」以外の何ものでもないように見えます。
金融機関とは何か
金融機関は「資金」を運用させて利益を生む以外の何ものでもないでしょう。
その資金が「預金」なのか、「自己資金」なのか、「融資を受けた資金」なのか、の違いはあってもです。
※わたしは、金が金を生むということに生理的に違和感を覚えるたちであるようです。
融資と事業経営
融資を受けない事業運営がありえないとは考えませんが、一般に事業運営には資金が必要で、それは上場や公開していない限り融資に頼ることは理の当然です。
しかし、融資を受ければ利息を産むために、融資を受けた瞬間から事業はその「金利」をコスト(あるいはリスク)」として、背負い込むことになるのです。
利息と事業運営
事業運営に利息が発生することはコストとして受け入れることはできますが、それでは適正な利率での融資であって欲しい、と思うのです。
適正利率を超えた利息はコストではなくリスクになってしまいます。
適正利率
金融機関は、貸出利率を公表していません。
それは銀行など預金を預かる金融機関(以下金融機関と称す)でも、商工ローンでも、市中金融でもそうです。
よって、融資を受ける事業者は自分が借りている利率はわかりますが、それ以外の貸出利率はわからないようになっているのです。
ましてや、「適正利率がどれほどか」なんて誰にもわからないことです。
事業運営の本義
事業を運営している以上、営業利益が上がっていれば、「納税」も達成されるわけですから、事業運営の本義は全うしていることになります。
営業利益には「借入金の返済」や「利息支払」は入っていません(それらは「営業外支出」になります)。
事業運営と倒産
にもかかわらず、倒産が発生するのはなぜでしょうか。
倒産はいけないことか
倒産せざるを得ない事業体はあります。
自由競争である資本主義の原理の中で、「営業利益」が出せない事業体が淘汰されていくことは、致し方のないことだと思えます。
わたしはここまで擁護するつもりはありません。
あってはならない倒産
一方で、「営業利益」を出し、「納税」できている事業体でも倒産することはあるのです。
それは、いかにも国家的な損失であるようにわたしには思えるのです。
倒産の原因
融資を受けている事業体が、「利息」が支払えなくなったり、「元金」の返済ができなくなって倒産するケースが増えています。
ここに救済の方途はないか、というのがわたしのテーマなのです。
不良債権とは何か
融資する側から見れば、「融資した資金が返済できなくなる」=「不良債権」ではありません。
融資したにもかかわらず、「利息さえ支払えなくなった融資先」が「不良債権」なのです。
なぜならば、先に述べたように、金融機関は「資金」を運用させて利益を生む構造以外の何ものでもないのであり、利益である利息さえ入ればいいはずであり、そこには元金返済は組み入れられていないと解釈できるからです。
にもかかわらず、融資する側は「元金を返済できなくなったら倒産に追い込む」ことがあり、それが問題なのだと、わたしは問題提起したいのです。
優良債権とは何か
融資する側から見れば、利息さえ支払われていて、なおかつ元金が保全されていれば、それは優良債権であるはずです。
金融機関にとって、リスクの少ない融資が優良債権なのであり、元金返済は必ずしもその条件には入っていないと考えられるのです。
にもかかわらず、元金返済ができなくなった融資先を不良債権と位置づけるのは絶対に間違っている、とわたしは考えているのですが。
融資と保全
融資する側から見ると、保全ができていれば(回収が保証されていれば)、優良債権であっても、元金返済ができなくなると不良債権とみなすことがあり、これは金融機関の価値観として、大きく逸脱しているのではないか、とわたしは思っています。
その元金返済ができなくなる事態、すなわち融資条件の不履行は、それが見抜けなかった金融機関のリスクではないか、というのがわたしの問題意識なのです。
優良債権と倒産
不良債権ではなく、優良債権としての融資を抱えた事業体が倒産することは、国家的な損失であると考えているのですが、実際にはそれが起こっています。
それは、なぜでしょうか。
大企業と中小零細企業
おなじ「企業」や「会社」という言葉で括られますが、大企業と中小零細企業では大きな違いがあるのです。
資金調達面でももちろんそうですが、経営責任の点で大きな違いがあります。
有限経営責任と無限経営責任
株式会社も有限会社も基本的には「有限責任」です。
出資した資本金の範囲での責任に限定されています。
大企業においてはそうでしょう。
しかし、中小零細企業では「無限責任」になっているのです。
具体的には、「金融機関からの融資」や「ローン」、「リース」には経営者の個人保証 (という名の連帯保証)を取り付けさせられるのが一般的傾向です。
これは大会社にはあり得ないことです。
大会社の経営者が融資の個人保証をしてるようなケースは寡聞にして聞いたことがありませんが、中小零細企業の場合は個人保証を取り付けられないケースの方が希なのです。
これらは、もちろん不動産などに抵当権をつけて「保全」ができている場合でもです。
場合によっては代表者個人だけでなく「役員」や「家族」まで個人保証させられるのです。
このことがあるが故に、中小零細企業の経営者は簡単に倒産できなくなっているのです。
なぜ、保全されているにも関わらず中小零細企業だけが「無限責任」を負わされるのでしょうか。
有限責任の差別性
先にも挙げたように、こうした個人保証という名の連帯保証が役員や家族にまで及ぶということは、倒産するとそれらの人も破産の憂き目にあうことになり得るのです。
大会社ではあり得ないことです。
融資やローンやリースは、基本的には保全されています。
しかし、抵当物件やローン物件やリース物件の評価が下がるのは、金融機関やローン会社やリース会社のリスクではないでしょうか。
大会社に対してはリスクを負うが、中小零細企業に対してはリスクを負わないという考え方は、明かな「差別」ではないでしょうか。
有限責任の連鎖
有限責任が役員や家族に及ぶということは、倒産すると債務責任がそれらの連帯保証人に移行してしまいます。
実は、倒産せざるを得ない環境にありながら、死にものぐるいで回避しようとする経営者のほとんどがこの連帯債務の連鎖にあるのです。
もちろん、論理的には連帯保証する人にもその責任があることは事実です(連帯保証のなんたるかを知らずに判子を押す方にも責任があるのですが)。
ここでは、連帯保証のことを論じるのではなく、連帯保証をせざるを得ない中小零細企業の環境について論じているので、連帯保証の話にはこれ以上は触れません。
その死にものぐるいの倒産回避行動がまた新たな連帯保証人を産むとしたら、これほど不幸な連鎖はありません。
もう一度言います。
こうしたことは大企業にはあり得ないことで、中小零細企業にのみ起こっている事象だということです。
金融機関は企業の味方でしょうか
金融機関のコストとリスク
金融機関といえども、自由競争である資本主義の原理の中では、事業運営上のコストはいうに及ばず、リスクも回避できないと考えます。
コストとは、事業運営上の必要不可欠の費用である。
すなわち「事業所の運営」「従業員の人件費」「その他事業運営上の費用」です。
そしてリスクとは、事業運営で発生したロスである。
すなわち「不良債権」です。
金融機関のリスク回避
金融機関は株式会社であり、自由競争である資本主義の原理の中では、リスクを織り込まなければ健全な経営はできないはずです。
にもかかわらず金融機関は、発生したリスクを国家的に補填(公的資金の導入など)されるのは、どう考えても納得がいかないのです。
それでは”株式会社”ではありません。
いっそのこと”国家事業”とすべきではないでしょうか。
金融機関のリスクはなぜ国家によって補填されるのか
単純なロジックであると思われます。
金融機関は国にとっては「税収の宝庫」であるからであり、政党政治の中では「献金の宝庫」であるからで、かつ官僚機構の中では「天下りの受け皿装置」でもあるからです。
株式会社がリスクを負っても、国家によって補填されるケースは、金融機関以外には皆無です。
これは不思議ですね。
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